2008年8月3日日曜日
8月03日:なぜ、庭先に卵を産むのだろう
● 襲いくるプラバー:その2
8月03日:なぜ、庭先に卵を産むのだろう
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「なぜ、庭先に卵を産んだのだろう」という疑問についていろいろ考えてみた。
こちらからは「なぜ」であるが、プラバー側からは「あえて、ここに」となるだろう。
プラバーは卵を人家のそばに産むという習性がある。
ということは。
その方が「安全」だという判断がある、ということになる。
本能的に「危険」を感じたら産まない。
プラバーは地面に卵を産む、という際立った特徴を持つ。
一般の鳥のように木の上とか、あるいは水鳥のように水際の泳いでいるところからしか見えないような場所でなら、最低の安全性は確保できる。
いくら威嚇に優れていても、地面の上では安全性は極めて少ない。
ゼロといってもいい。
見えない場所というのは、人間には有効であるが他の動物にあっては無意味である。
例えば犬は「臭い」で場所を判断する。
視覚は非常に近づいてはじめて有効になる機能で、補助作用でしかない。
ということは見えない地面の場所とは、危険な場所ともなるということである。
なら、地面上で安全な場所とは。
「人間の手の入った場所」ということになる。
人間の行動範囲、領域とは、人間臭い雰囲気を持つ場所である。
そこは野生動物が近づきにくい場所になる。
これは確かに他の動物からは圧倒的に安全を確保できる。
木の上、水際と同等に近い安全性を得られるかもしれない。
でもそれは野生動物に対してのみである。
逆に犬猫の家禽からはすこぶる危険な場所となる。
すると、次の条件は家禽を飼っているか、になるだろう。
おかげで、我が家は犬猫どちらも飼っていない。
でも、隣には高価にしてゴーマンなシャム猫がいる。
危険性この上ない。
さて、これをどうプラバーは判断し、巣場所の選定に組み入れたのであろうか。
最後の条件は、その家の人が、迷惑がって卵を廃棄してしまわないかである。
これは産んでみないとわからない。
こちらの人はプラバーを嫌がって、卵を潰してしまうことが多い。
鳥側からは悲しいことであるが、人間側からは嫌われ鳥であるから、しかたがない。
人間は自己満足で考えることはあっても、動物の身になってまで考えはしない。
カンガルーを350万頭殺すのに平然として、400頭殺すのに文句をつける。
別に400頭が可哀想なのではない。
単なる身勝手な論理なき自己満足。
日本人には「生きとし生けるもの」といった感覚があるが、こちらではすべての動物は「人より劣るもの」という小さい時から刷り込まれた宗教的感覚がある。
見えない処では平然と殺し、見えるところではわめきたてる。
いいかえると人間の「パフォーマンス」
よくある心理構造。
文句をいってもはじまらない。
我が家は、アイビスとマグパイは石を投げて追っ払う。
理由は、嫌いだから。
明解。
それ以外ならエサ台を作り、買いエサをまき、あるいは毎日パンを与えてやる。
それは十分承知のプラバーである。
なぜならときどき、プラバー自身がそのパンを引っさらうこともある。
ということはプラバーから見ると、この家は卵を産むに安全度の高い人の部類の家である、ということになるのかもしれない。
まだ、孵化していない。
依然として卵は4つである。
今日も襲い来るプラバーを撮った。
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